第1回尾道てのひら怪談佳作受賞作品『陽光台行き』
作品タイトル: 陽光台行き
筆名: 林 加野
陽光台行きのバスに揺られていた時、ふと隣の彼女が何か呟いた。何と言ったのか、気にはなったが聞けなかった。夜の木々をくぐり登っていたバスが、ゆったりと止まり始めたからだ。そうして、座席のそこかしこにあるボタンが赤く灯った。 『つぎ とまります…』 録音された女性の声が耳に響いて間もなくバスが停止した。 『はなくりばし…はなくりばし です……』 中の空気を吐き出しドアが開いた瞬間、やけにしんとした。 「だれも、おりない」 そっと口にした彼女の声が、綺麗にこの空間に染みていく。 「そりゃ、誰もいないしさ」 私達以外に。その応えは、ひとけの無い周囲に刺さるようだった。ドアがまた、しずしずと空気を押し込みながら閉まった。水源地という貯水池の傍にある大学を目指して、バスはまたゆるゆると坂を登り始めた。遠くなった木々が窓の外を過ぎて行く。 「そういえば、さっき何か言っただろう」 バスの揺れに乗せて聞きそびれたことを尋ねると、彼女はこう言った。 「……ああ。今日は降りないのね、て言ったの」 彼女の瞳はくっきりと最前席を映している。 「いつも、なんにも無い花繰橋で降りる男の子」 バスの音が遠ざかるような心地がした。あぁ、じきに水源地に着く……。 「でも、今日はボタン押さなかったから。運転手さんが気を利かせて停めてくれたけど……降りなかったわね」 その後、私は彼女と2人、大学前でバスを降りた。夜道を見やった私の目には、空っぽのバスが終点の陽光台に向けて動き出すのが見えた。