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第2回尾道てのひら怪談優秀賞受賞作品『春の彼方』

作品タイトル: 春の彼方  

筆名: シンオカコウ

 小学校低学年のころだったと思う。季節は春だ。千光寺の桜が見事に咲いていた。近くに住んでいたから、よく千光寺の辺りで遊んだ。大抵は友人と一緒だったが、その日はひとりだった。 「桜の花びらを集めているんだよ」  何をしているのかと声をかけると、そのひとはそう答えた。千光寺から少し下りた空き地、満開の桜の下での出会いだった。 「地面に落ちる前の花びらを捕まえたいんだけれど、これがなかなか難しい」  手伝ってくれないかと言われて、意気込んで花びらを追いかけた。駆け回るばかりで収穫はなく、遊んでいるのに近かったが、そのひとはおおらかだった。  そのひとの花びらの集め方は独特だった。本を読むのである。たまにぽつぽつと何か呟けば、ふっと数枚の花弁が誘われるように本に吸い寄せられる。そうしてページに舞い降りたそれらを丁寧につまんで、横に置いた銀の水筒にそっと入れるのだ。 「桜は文学が好きなんだよ」  読み聴かせれば、向こうから来てくれるのだとか。こちらはといえば、捕まえられた花びらは結局一枚だけだった。 「一週間経ったら、またここにおいで」  覚えていたらね、と笑うそのひとに見送られて帰った。一週間後に再びそこに行くと、飴玉をひとつもらった。手伝ってくれたお礼だよ、と。喜んで頬張って、驚愕した。食べたことがないほど、おいしかった。  夢中でふたつ目をせがんだ。あまりに食い下がったものだからそのひとも折れて、お代を払ってやっと譲ってくれた。  今はもう飴の味も覚えていない。覚えていないことの方が多い。例えば、そう。  あの日、自分はあのひとに何を支払ったのだろう?

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